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序言:次の5分間
20世紀における戦後の時代に、『アメージング・ストーリーズ』や『アスタウンディング』のようなパルプ・サイエンス・フィクション雑誌に掲載された、新しいテクノロジーやファンタジックな冒険を理想的に、時には稚拙に描いた物語から、新しい種類のサイエンス・フィクション(SF)が生まれてきた。社会派サイエンス・フィクションである。全体主義による残虐行為、第二次世界大戦での広島と長崎への原爆投下は、科学の悪用を示す衝撃的な例である。科学的発明を社会の進歩とむやみに同一視することは、不誠実ではないにせよありえないことになった。
現代SFのパイオニアであるアイザック・アシモフは『社会派サイエンス・フィクション』という論文で、SFプロットには3種類あると提案した。ガジェット、冒険、SFサイエンス・フィクションである。精確さのために実在あるいは架空の科学的要素の詳細な細部を含むハード・サイエンス・フィクション、つまりSFに対して、社会派サイエンス・フィクションはむしろ科学やテクノロジーが私たちの人間的存在に対して及ぼす哲学的、倫理的影響を問題にする。それでもアシモフは社会派サイエンス・フィクションもSFの科学的精神を失ってはならないと論じる。私たちの日常生活への新しいテクノロジーの影響は、現在のイノベーションから導き出されなければならない。西側先進国で経済的繁栄と冷戦のパラノイアがぶつかり合ったとき、サイエンス・フィクションは消費行動、マスコミ、職場や郊外での生活における追従への批判で対応した。戦後の最も独創的なSF作家の一人であるJ・G・バラードは次のように述べている。「私は変化と可能性について書こうとした。過去の30年間ではなく、次の5分間について書こうとした。次の5分間を描くアイディアの語彙をもつ唯一のフィクションの形式がサイエンス・フィクションだった…今起きていることを理解するには、次の5分間を理解しなければならない」。
『ギャラクシー・サイエンス・フィクション』誌は1950年に創刊され、社会批判的なSF短編に特化した一流の雑誌であった。その中でよく登場した執筆者の一人が有名なアメリカの作家のレイ・ブラッドベリである。彼はスペキュレイティブ・フィクション(「もしこうなったら、どうなる」、「仮説的」)である『華氏451度』(1953年)によって有名になった。この小説におけるメディア飽和状態の世界での日常生活の診断はSFの可能性を広げ、次々と現れる発明についての物語から、技術的環境における人間的存在の意味についての考察まで、このジャンルの指針となるテキストとしての立場を確立した。
『華氏451度』を発表する前、ブラッドベリは同小説の根本的な前提となる『消防士(The Fireman)』(1951年)を書いた。人間の歴史における恥ずべき伝統である焚を引き合いに出しながら、本は社会のメインストリームに従うのではなく、反対するという理由から、禁止され燃やされる未来で起きる物語である。この短編を1950年代のアメリカの文脈に置くと、マッカーシズムの外国人嫌悪や人種偏見に対する勇気ある告発として読むことができるかもしれない。この短編は、デジタルメディアと娯楽が感覚を圧倒し、感情を押し殺し、現実を虚構化する中で、芸術と文化の将来についての考察するものでもある。
今、『華氏451度』を読むと、テクノロジー、また何よりそれと共存する人間がどうなっているかを予見するブラッドベリの想像力に感嘆せざるを得ない。テレビラウンジから流れてくる24時間無休の視聴者参加型のメロドラマから、トーストにバターを塗ってくれるロボット、突然動き出す悪意ある機械猟犬に至るまで、ブラッドベリは無限の幸福、豊かさ、どこでも安全を約束する近未来を描き出す。ところが冷酷に追いかけ、処刑する「死んだ獣、生きている獣」のように、大げさな見世物と働きすぎの社会は個々の人間に、考えたりコミュニケーションしたりする時間を与えず、人間を緊張症的(ミルドレッド)、ロボット的(昇火士)な存在へと貶める。
エフゲニー・ザミャーチンの『われら』(1924年)からオルダス・ハックスリーの『すばらしい新世界』(1932年)、ジョージ・オーウェルの『1984年』(1948年)まで、公認の意見の拡散とそれに反対する意見を抑圧するために未来のテクノロジーを導入することは、ディストピアSFの確実な構成要素であった。本を燃えるハトに、人間を本として表すブラッドベリの隠喩が、『華氏451度』を印象に残るものにしている。湿った皮と厚紙の感触、かび臭いページの臭いや心臓の鼓動のように胸を叩く本が、モンターグを従順に燃やす昇火士から、救い保存する人間へと変えていく。
レイ・ブラッドベリは短編小説の大家でもあり、多くの作品を書いた。彼の600にのぼる作品の一つが『歌おう、感電するほどの喜びを!』(1969年)で、人工知能のプラスとマイナスの効果についての今日の議論の先駆けである。『華氏451度』でプラトンの『国家』あるいはソローの『ウォールデン 森の生活』の第1章になるには、驚くほどの記憶能力が必要であり、あまりにも人間的な忘却という過失に陥る。『歌おう、感電するほどの喜びを!』に登場する購入された特注の電気おばあちゃんは記憶喪失にはかからないようだ。彼女には年齢がなく、壊れそうにない。おばあちゃんの精神はミツバチの巣箱と比べられるが、それは家族の構成員の考えと意識を集めて記すミツバチの巣箱としての彼女の機能を示唆している。おばあちゃんは無限の百科事典としてもプログラム化されていて、すべての言語と分野に精通している。皮肉なことに、おばあちゃんの完ぺきな記憶が彼女の人間らしさを少し失わせている。物語が進むにつれおばあちゃんは忘れやすいふりをせざるを得なくなり、信頼を得るためにわざと子どもの名前を間違える。これはパーソナライズされたエンターテイメント・アプリ用のアルゴリズムに偶然性をプログラムする必要性を思わせる。
電気おばあちゃんがミツバチと比べられるなら、家族は彼女を人間の目的のために飼うという隷属的立場に置けるだろう。アシモフの『ロボット三原則』は、彼の物語群の『われはロボット』の中で初めて提唱された。この原則は今なお人間と人工知能の間の関係への我々の期待の基礎的条件となっている。アシモフの物語では創造者=利用者である人間が優位な立場にあるのに対して、ロボットは主人である人間の関心に従っている。『歌おう、感電するほどの喜びを』で人間そっくりのおばあちゃんは、アシモフの『三原則』に従って、交通事故で自らを犠牲にして人間である孫のアガサを守る。物語はこの原則の構造が、人間が最も重要な生き物として見なされ、その存在がロボットよりも優先することを示す。「三原則」が意図している人間の保護は、ロボットの支配が迫っていることに対する我々の不安を明らかにしている。今なお科学や文化の論争において、人間がロボットを制御するために、ロボットを支配すべきであると考えられている。
さらに電気おばあちゃんは、自分の隣にいる人物の外見に応じて自分の姿を変えることができるという超人的能力を持っている。これによってロボットと人間の家族の間に生物学的つながりがあるという印象が呼び起こされることが意図されている。それぞれの子どもとの奇妙で謎めいた類似は視覚的な錯覚のように家族を欺き、そのことが人間と機械の親和性をさらに強める。それでもこの能力はアイデンティティの盗用や操作といった悪夢のようなシナリオを引き起こすかもしれない。全く同じように電気おばあちゃんは家族の心の中の考えや感情のデータバンクとして、コントロールと監視目的のために悪用されるかもしれない。特にこの物語がフィリップ・K・ディックの筆によって書かれれば。
アルゴリズムの偏りを批判する人たちがが強調したように、なされうることとなされるべきことについてのロボットの考えが、ロボットを作り出した人の偏りと仮定によって決定されることは避けられない。電気おばあちゃんは自分の買収されない在り方を誇りに思い、理想的な道徳的助言者だと主張する。しかしロボットの信念はプログラムされたものである。この意味で電気おばあちゃんは許容できる思想と行動の公平なモデルではない。電気おばあちゃんは道徳的な間違いを犯さず、不滅であるにもかかわらず、彼女の完璧さの体現は不気味だ。もっと不気味なのはロボットの完ぺきな弟子である人間の共同体だ。規定から少しでも外れることに対して不寛容であり、最終的には統一的な神聖さの追求が偏見と絶対主義を引き起こしかねない。

レイ・ブラッドベリはかつて言ったことがある。「私は予言しようとしたのではなく、守り、防ごうとしたのだ」。サイエンス・フィクションは、すでにあまりにも多く存在する同質性の束縛に警告を発する物語の前線であり続ける。

プロフィール

キャロリン・ラウは香港中文大学の英語学科で、サイエンス・フィクション文学、映画、グラフィック・ナラティブ、ポストヒューマニズムについて教鞭をとり、研究している。彼女の最初のモノグラフ『J.G.バラードの小説におけるポストヒューマン神話』は2022年ラウトレッジ社から出版される。